古地図から読み取る歴史。西成釜ヶ崎がなぜ貧民街と化したのか、福祉と住宅について :: デイリーSKIN

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[2015年12月19日00時00分00秒]
古地図から読み取る歴史。西成釜ヶ崎がなぜ貧民街と化したのか、福祉と住宅について

【ファイルF61】2014.06.21 大阪平野は昔は河内湾(かわちわん)という海で、鯨さんが泳いでいたよ。

 上記ブログで興味深い古地図が掲載されていました。

 約6000年前の大阪湾、当時は鯨が泳いでいた奇麗な海だったのでしょう。

(ライターFT)

古地図から読み取る歴史。西成釜ヶ崎がなぜ貧民街と化したのか、福祉と住宅について


 下の地図は明治44年頃の天王寺から現在の釜ヶ崎近辺の古地図です。



 そしてこれが江戸時代の古い地図。



 何ともざっくばらんな感じがいいですね。中央より少し左あたりに勝間という地名が描かれています。ここが現在の西成区玉出になり、勝間と書いてこつまと読みます。

 元々、貧民街と呼ばれる地域は現在の日本橋あたりに木賃宿が乱立していました。それを当時の大阪の警察部保安部長であった中村三徳という福祉のパイオニアである人物が調査に乗り出します。

 あまりに悲惨な現状を目の当たりにした中村 三徳さんは、自ら現在の救護施設などの前進になる自彊館という施設を作ります。現在は大阪自彊館という社会福祉法人として続いています。

 江戸末期から明治にかけ、現在の恵比須町あたりから西成区の釜ヶ崎あたりまで生活困窮者達が利用出来る安宿、肉体労働者達が寝泊まり出来る、安い木賃宿が立ち並んでいました。



 木賃宿というのは街道などで、燃料代程度、もしくは相応の宿賃で旅人を宿泊させた宿泊施設のことを指します。

木賃宿 ウィキペディア

 要するに、この木賃宿が変化し、現在で言う所のドヤに変形していったんですね。



 地図丈夫には整理された区画がありますね。これが当時の木賃宿が集合した日本橋近辺、現在では電化製品やパソコン、メイドの街と化しています。この辺りが整備され、中村 三徳により西成の釜ヶ崎に救護施設が作られ、自然発生的に木賃宿、つまりドヤが乱立していったんでしょう。

 北から南にシフトさせ、生活困窮者を集め、支援施設を作ったのです。

 地図から見えることは色々とあります。

 もっと調べると、地形が原因だったり、もっと色々な理由がみえてくると思います。色々と想像を膨らませ、当時の文献などを読むと、さらにマニアックな大阪の歴史が読み取れます。











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