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[2018年07月09日00時00分00秒]
世界遺産にいこうかと!まとめ



(ライターFT)

世界遺産にいこうかと!


 なぜ、今更世界遺産なのか?

 行ったことがないからです。

 長崎の「潜伏キリシタン」が世界遺産に決定しましたが、「潜伏キリシタン」って、建物?人間?というレベルです。

 行けばそれなりに自分でも調べたり、現地でも何かが分かるのかも知れない。そんな想いから、世界遺産に一度は行かないとと考えています。

 しかも、日本には20もの世界遺産が存在するようです。

 「日本人に生まれて世界遺産を知らんとはどうゆうことやっ!」

 そんな叱責を受けそうな気がしています。(誰に?)

 関西に住んでいれば、法隆寺くらいは行ったことがありますね。

 世界最古の木造建築で、1993年に世界遺産登録されています。実際には法隆寺地域の仏教建造物が世界遺産に登録されているのですが、法隆寺の建造物47棟と法起寺の三重塔を加えた48棟が含まれているそうです。

 奈良ってすんごいんですねぇ〜



 いやぁ〜〜

 ええやないのぉ〜〜

 日本の古き良き時代の建物ですねぇ〜〜

 五重の塔、聖徳太子ゆかりの寺院です。推古9年(西暦607年)、今から1400年以上前に建てられた最古の木造建築になります。日本書記に記載されているのですから、すごいですねぇ〜〜

 でも西暦690年頃、一度火災で全焼したらしいです。

 それでも日本最古の奥増建築である事は間違いありません。
 
 関西に住んでいて、観ないわけにはいかないですね。

 ガイドさんをつけると、さらに詳しいことがわかるようで、ガイドさんをお願いして観たいと考えています。

 携帯電話などでの音声アプリも富士ゼロックスが提供してくれているので、これを利用するのもいいですね。ガイド情報が設定されたスポットに近づくと、GPSの位置情報を利用して、音声によるガイドが自動的にスタートします。

 のっけからとんでもないオヤジギャグをかましてくれていますが、Youtubeでも法隆寺の解説などもあります。



 そして「釈迦の入滅を悲しむ弟子たちの塑像」では、悲しむ弟子たちの中に、完全に人間では無い像もあります。



 これは・・・

 しかもこれは肉眼でも確認しづらいらしく、よく観ないと分からないくらいの大きさらしく、十二支のウチの「馬」「鼠」「鳥」らしく、薬師如来の護衛である「十二神将(じゅうにしんしょう)」では無いかと言われています。

 しかしなぜ、3体?

 イラクのシュメール文明の遺跡に残る像やレリーフに「馬頭形侍者像」に似たものが出土していたり、エジプトにも爬虫類の頭を持つ神様がいたり、実際にこの像に似た頭蓋骨が出土していたりしているそうです。(どこで出たんや!?)

 法隆寺には七不思議も存在します。

法隆寺の七不思議? より抜粋

その1.法隆寺の伽藍には蜘蛛が巣を作らず、雀も糞をかけない。
実際の所は、蜘蛛が巣を作り鳥の糞も多く見受けられます。
これは法隆寺をこのような清い寺に保とうという僧たちの心持ちの表れではないかと思われます。
その2.南大門の前に鯛石と呼ばれる大きな石がある



南大門の階段の下に魚の形をした石が地面に埋め込まれています。この石には、どんなに大雨が降ってもこの石の位置よりも水位が上がらないということから、魚(水)はここまでまでしか来ないという意味が込められています。

その3.五重塔の上部の九輪に鎌が四本刺さっている



この鎌は聖徳太子の怨霊封じのためという説もありますが、落雷防止を祈願するもので、雷の魔物が塔に降りようとするのを防ぐためのものとされています。これは中国古来の五行が関係し、五行では世の全てのものは、木火土金水の五つに属し雷は「木」、鎌は「金」とされます。そして金は木に勝ることから鎌がかかっていると考えられます。またこの鎌が上向きに見えたらその年は米が豊作で、下向きに見えれば凶作であるともいわれています。

その4.法隆寺の中庭に伏蔵(ふくぞう)が三つある



伏蔵とは地下の蔵のことで、法隆寺が破損した時、再建ができるように財宝が収められているところです。金堂の北東の角、経蔵の中、回廊の南西の角にあり、石の蓋で覆われています。

その5.因可池(よるかのいけ)の蛙には片目がない

西院伽藍と東院伽藍を結ぶ石畳の大路の奥にある因可池は付近には昔、太子が住んでいた斑鳩宮がありました。太子が学問をしている時に蛙があまりに鳴いたそうで、静かにするように筆で目をついたところ、この池の蛙はすべて片目になったといわれているそうです。

その6.夢殿の礼盤(お坊さんが座る台)の裏が汗をかいている

夢殿の救世観音像の前に礼盤(らいばん)と呼ぶお坊さんが座る台があります。
毎年2月にこの礼盤を日光に当て、陽の光により帯びる水気の量によって豊作か凶作かの占い(夢殿のお水取り)を行います。

その7.雨だれの穴が地面にあかない

実際には、雨だれの穴はいくつも見受けられましたが、この言い伝えは法隆寺の水はけの良さ、地盤の良さを表しているものだと思われます。

 これらの謎は、法隆寺の公式として認められているそうです。

 こうした謎解きもしながら秋頃、涼しくなった頃に法隆寺のレポートをしてみたいと思います。

(ライターFT)

世界遺産にいこうかと!姫路城編


 姫路城と言えば、平成5年12月、奈良の法隆寺とともに、日本で初の世界文化遺産となりました。シラサギが羽を広げたような優美な姿から「白鷺城」の愛称で親しまれるお城です。



 江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されたお城になります。

 1333年に護良親王の命により挙兵。京に兵をすすめる途中、姫山に砦(とりで)を築いたのがキッカケです。それから13年後の1346年に本格的な城を築き始めます。赤松 則村(あかまつ のりむら)という鎌倉武将が最初に砦を築きますが、当時は姫山という地名でした。その砦を則村の息子である貞範が城に改修しますが、この辺りまでは姫山の城という名称でした。

 姫路城の簡単な歴史は以下の通りになります。

元弘三年頃(1333)
赤松則村:姫山に城柵をめぐらして砦みたいなものを築く



 こんな感じのようです。


正平元年頃(1346)
赤松貞則:貞村の次男・貞範が姫山に城みたいなものを築城


正平四年頃(1349)
小寺頼季:貞範は庄山城を築いて移り、小寺氏が守る


嘉吉元年(1441)
山名持豊:山名氏、赤松氏を滅ぼして播磨守護となる


応仁元年(1467)
赤松政則:赤松氏復活! この時、本丸、鶴見丸、亀居丸を築く


文明元年(1469)
小寺豊職:赤松政則は置塩城を築き移ることになったので小寺氏が守る


天文十四(1545)
黒田重隆:小寺氏は家臣の黒田氏に姫路を任せ御着城に移る


天文十五(1546)
この年に孝高(官兵衛)生まれる


永禄十年(1567)
黒田孝高:高(官兵衛)が黒田氏の当主になる


天正八年(1580)
羽柴秀吉:織田信長から中国地方制覇の命を受けた羽柴秀吉に孝高は姫路城を献上する


天正九年(1581)
この年に三層の天守を築いたとされる


天正十一年(1583)
羽柴秀長:秀吉は大阪城を築いて移ったので弟の秀長が在城


文禄四年(1595)
木下家定:秀長は大和郡山城に移ったので、秀吉正室・北政所の兄である木下家定が入城


慶長五年(1600)
池田輝政:関ヶ原合戦の戦功で池田輝政が三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)より姫路に移る


慶長六年(1601)
輝政が城郭大拡張工事を開始


慶長十四年(1609)
五層の大天守が完成!


慶長十八年(1613)
池田利隆:輝政が病死。長男の利隆が跡を継ぐ


元和二年(1616)
池田光政:光政が父・利隆の跡を継ぐ


元和三年(1617)
本多忠政:光政は因幡鳥取に遺封。忠政が伊勢桑名より入城


元和四年(1618)
家康の孫・千姫が忠政に嫁ぐ。この時、化粧櫓などを築造


寛永十六年(1639)
松平忠明:本多氏は大和郡山に移封。松平氏が入城


慶安元年(1648)
松平直基:忠明の子・忠弘が出羽山形に転封。松平直基が城主に。


慶安二年(1649)
榊原忠次:榊原氏が陸奥白河より入封


天和二年(1682)
本多忠国:本多氏が福島より入封


宝永元年(1704)
榊原政邦:榊原氏が越後村上より入封


享禄十七年(1732)
榊原政岑:榊原政岑(まさみね)が遺領を継ぐ


寛保元年(1741)
松平明矩:榊原氏は越後高田へ移り、松平氏が陸奥白河から入封


寛延二年(1749)
酒井忠恭:酒井氏が上野前橋より入封。これ以後、明治維新まで酒井氏が姫路城主となる


明治元年(1868)
酒井忠邦:この年、明治維新。翌年に版籍奉還となる


昭和三十一年(1956)
大天守などの解体修理を行う


平成五年(1993)
ユネスコ世界文化遺産に指定される


平成二十七年(2015)
およそ五年に及ぶ平成の大改修が終了
 
 ではいつから白鷺城と呼ばれる程の、美しいお城になったのでしょう。

 天守閣と呼ばれるお城が作られたのが、1500年ごろと言われています。

 黒田官兵衛が城主だったこともあり、官兵衛はあっさり秀吉に献上、秀吉は館のようだったこのお城を作り直し、3層の城を城築します。関ヶ原後、池田輝政が城主になり、9年の歳月をかけて 秀吉が築城した3層の姫路城を現在の5層7階の城に大改築し、現在の原型と呼ばれるようになりました。



 姫路はあまり雪が降らないのですが、雪景色の姫路城は素敵ですね。

 現在の原型となる姫路城を作った池田輝政が入城してから、怪奇現象が頻発します。

 ●夜半の子の刻になると、太鼓の音が鳴り響き、悪鬼が目撃される
 ●台所の大釜の上に切り取られた腕が発見される
 ●ある家臣が白昼、傘を差して歩いているところ、突然空中に引き上がられた。
 ●約3mもあろうかという毛むくじゃらの腕につかまれ、投げつけられて悶絶死した家臣がいた。
 ●女中が何人も行方不明になった。
 ●枕元に身の丈3mもの巨大な坊主が女中の枕元に立っていた。 

 城主の池田輝政自身も、鬼に脅されるなどの怪奇現象に見舞われます。

 多分、統合失調症だったのでしょう。

 現在でいうところの精神疾患です。

 姫路城で有名なのは「更屋敷」ですね。

 約450年前の室町時代中期、姫路城執権の青山鉄山(てつざん)は、城を乗っ取ろうと、城主を増位山の花見の宴で毒殺しようと企て、それを察した城主の忠臣、衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は、愛人であるお菊を鉄山の屋敷に奉公させて企みを探らせ、鉄山の息子小五郎から父の陰謀を聞き出しました。

 この知らせを聞いて元信は、花見の宴で城主を毒殺しようとする鉄山の陰謀を阻止することができました。その後もお菊は、鉄山の屋敷で動向を探り続けていましたが、鉄山の同士町坪弾四朗(ちょうのつぼだんしろう)に気づかれてしまいます。

 ところが、以前からお菊に好意を持っていた弾四朗は「黙っている代わりに自分のものになれ」とお菊に言い寄りました。しかし、お菊はその条件を聞き入れず、弾四朗に折檻されます。それでも強情に言うことをきかないお菊を憎らしく思うようになった弾四朗は、ある日、お菊が預かる家宝の十枚の皿うち一枚を隠してその罪をお菊に負わせ、ついにお菊を切り殺し庭の井戸に投げ込みました。

 それからというもの夜ごと井戸の底から悲しげな女のか細い声で
 「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚・・・・・」
と皿を数える声が聞こえるようになりました。
そのお菊が投げ込まれた井戸がお菊井戸だと言われています。



 実際にあったお話かは不明です。

 歌舞伎の演目になり、日本全国に広まって行った怪談噺が本当のところです。

 根拠になる話はきっとあったのでしょう。

 とにかく美しいお城です。

 一度は行っておきたい観光名所ですね。


(ライターFT)

世界遺産にいこうかと!東大路編


 東大寺といえば、奈良の大仏です。

 関西に住んでいれば、一度は学校の遠足で必ず行きます。食い意地のはった鹿たちにおせんべいをあげたりと、中々楽しい場所です。



 これは1998年に世界遺産に登録されています。

 8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。

 一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ[4]、寺名は金光明寺と改められた。

 大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。



 聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。

 難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。

 東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。

 ウィキペディアより抜粋


 歴史は上記の通りです。

 デイリーSKINでは、少し違った観点から東大寺周辺を調べてみたいと考えています。

 東大寺にも、7不思議ならぬ、不思議が存在します。

 「大仏殿の柱の穴と穴をくぐる風習の起源と真の理由」

 この柱のある北東は鬼門なので、柱の穴から邪気が逃げるようにしてあるのが本当の理由です。ここをくぐる事が出来れば、いい事があり、頭が良くなるなんてことも言われていますが、あまり変わりはありません。

 「大仏様の足元(花瓶)には”足が8本の蝶”」がいる!

 理由は不明です。

 そして鹿は意外に危険!



 奈良公園の鹿は、おせんべいをもらう時に、お辞儀したりして可愛らしいのですが、一応、野生の鹿です。買われているわけでは無いので、咬まれたりすることもしばしばあるそうです。




 実は東大寺周辺は観光スポットにもなっているので、見どころはかなり多く、1日では足らないかも知れません。

 風情ある古都奈良の町並みは、古き良き時代の町並みを残していますので、かなりオススメです。京都のように混んでいないのがオススメです。




 素敵な街並みが続きます。



 ベタベタな観光ですが、季節の良い時に行くのは最高です。

 鹿に戯れ、帰りは奈良まちグルメで美味しいお食事でシメもいいですね。





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