大河伝ドラマ龍馬伝 三吉慎蔵という人物と高杉の病 :: デイリーSKIN

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[2010年09月09日00時00分00秒]
大河伝ドラマ龍馬伝 三吉慎蔵という人物と高杉の病

 9/5放送の大河ドラマ龍馬伝、寺田屋騒動は見ごたえ十分でした。

 瀕死の龍馬、分かっていてもみたくありませんね。


この龍馬の画像は三吉慎蔵の子孫から伝わる龍馬写真の原物写真が 大浦慶の親族・竹谷家から発見。

 左手を隠しているのは寺田屋騒動で受けた怪我を隠す為と言われています。




 そして福山雅治が完全に龍馬を演じています。

 一つ屋根の下の頃の福山雅治と今の龍馬と見比べてみて下さい。

 物凄い演技が進歩しています。

 


(ライターFT)

 大河伝ドラマ龍馬伝 三吉慎蔵という人物と高杉の病


 幕末の志士たちは皆、熱い人が多いですが、この三吉さんは龍馬を救っただけでなく龍馬の死後もお龍さんなどの世話もしている。

 ドラマを見ていても分かるように三吉慎蔵は長州藩士で槍の名手。


三吉慎蔵

ウィキペディアより抜粋

1831年、長府藩の今枝流剣術師範・小坂土佐九郎の次男として生まれる。天保8年(1837年)、田辺惣左衛門の養子となり、藩校敬業館に入学。天保10年(1839年)、諸武芸師範に入門。嘉永2年(1849年)、長州藩校明倫館に入学。宝蔵院流槍術に長じ、安政2年(1855年)には長州藩師範・小幡源右衛門より免許皆伝を受ける。

 9/5放送の龍馬伝でも龍馬が三吉さんに「生涯の友」といっていたが、
この話は本当で、寺田屋騒動の後も龍馬と共に薩摩まで同伴する。

 もちろん、長州の恩人である龍馬を命がけで守った功績を認められ、長州藩主・毛利敬親より刀を下賜され長府藩からは二十石の加増、同藩目付役に任ぜられ出世した。

長州藩主・毛利敬親

 第二次長州征伐が始まると慎蔵は長府藩五番大隊軍監兼応接、六番遊撃大隊軍監に就任し、高杉晋作の指揮の下、幕府軍と戦い勝利した。



 もう少し後になるのだけど、ある事件で龍馬が遺書をしたためるのですが、その遺書も三吉慎蔵にその遺書を託すこととなる。

 龍馬が暗殺された時も、その知らせをお龍に伝えたのも三吉慎蔵だとされている。

 これほどお互いに信頼関係を築いたのは三吉慎蔵の長男にも語り継がれている。

 「坂本さんがよく裏から忍んで来て、蔵の中で父と二人きりで終日語り明かした事があったが、其蔵には何人でも寄せ付けなかった。従って父と坂本さんとの間にどんな話があったか誰も知るものがなかった。しかし母だけは、時々一升徳利を携へて蔵の中に入る姿を見かけたものだ。」

 やはり色々と酒を交わしながら朝まで語り明かしていたようです。

 三吉慎蔵は明治維新後も活躍し、71歳でこの世を去りました。

 とにかく本当の親友だったんですね。

 そして気になるのが高杉さんの病気ですね。

 私は龍馬と同じくらい高杉さんに憧れています。

 詳しくはまた改めてやりたいと思いますが、次週放送の予告編で高杉さん、吐血シーンがチラッと放送されていました。

 高杉さんって若くして亡くなったんです。

 肺結核を患っていたんです。

 知っている人も多いとは思いますが、当時のこの病、不治の病とされていました。

 二十七歳8ヶ月という短い生涯でした。

 高杉さんは幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航しました。

 高杉さんが20歳のときこんな詩を残している。

 『 翼あらば 千里の外も飛めぐり よろつの国を見んとしそ おもふ 』

もし僕に翼があったなら、千里を越えて、この空を飛び巡り様々な国を見て回ることだろう

 そういう意味の句になります。

 当初、高杉さんはベトナムに行きたかったようです。

 ベトナム行きは実現出来ませんでしたが、この句を書いた3年後に上海に行くことになります。

 当時の中国は清朝時代で、アメリカ、フランス、イギリスなどの植民地状態で、これを見た高杉さんは約2ヶ月の間、様々な情報を元に今後の日本の姿を懸念した。

 長州藩士なら誰しもが攘夷思想と思うが、高杉さんも攘夷派には間違いないのですが、普通の攘夷とは少し考え方が違う攘夷派だったと思います。


幕末の風雲児 高杉晋作


高杉晋作 功山寺決起から死まで〜「知ってるつもり」より


高杉晋作旧宅1/3











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