JBと並ぶFUNKの神・sly&the family stoneが初来日!
国際フォーラムのジャズ・フェスティバル、9/2には青山のブルーノートにてライブを行いました。
ブルーノートに関してはチケットが非常に入手困難、ヤフオクでは3万円台で取引されたとか。
行けなかったわけですが・・・
初めてスライを聞いたのは中学生の時でしたが、ショッキングでしたね〜
本日はスライ・ストーン特集!
スライ・ストーン 1943年3月15日 生まれ。
本名シルヴェスター・スチュアート。
1960年代中期、スライはカリフォルニア州オークランドのラジオ局KSOLで(のちにはKDIAで)DJを務め、その傍らオータムレコードでレコードプロデューサーを務めた。このとき彼が手がけたバンドには、ザ・ボー・ブランメルズやザ・モジョ・メン、ザ・グレイト・ソサエティがある。スライ・ストーンという芸名を名乗り、1966年にはトランペット奏者のシンシア・ロビンソンを含めてザ・ストーナーズというバンドを結成した。
ストナーズの解散後後、妹のローズがピアノ、弟のフレディがギターを担当し、シンシア・ロビンソンのトランペット、ジェリー・マーティンのサックス、グレッグ・エリコのドラムス、そして、後にチョッパー・ベースの元祖としてファンクの神として崇められることになるラリー・グラハムのベースからなるスライ&ザ・ファミリー・ストーンの誕生でした。
当時このバンドが世間を驚かせたのは、白人黒人混成であることと同時に男女混成という未だかつてない構成でした。リズムの要、ドラムスとサックスが白人男性、ピアノとトランペットが黒人女性、そして残りが黒人男性というバンド編成は、公民権運動により人種の壁が崩れつつあったアメリカの姿を見事に象徴していました。(実際は、黒人女性がヴォーカルではなく器楽奏者として参加していたことの方が珍しかったのです)
そして1969年にはウッドストックに出場。
その後リリースしたアルバム"THERE'S A RIOT GOIN ON"
彼は複数の理由によるストレスで押しつぶされてしまったことに気がついた。売れ行きをさらに伸ばすようにというレコード会社からの圧力。スライの音楽をもっと戦闘的にして、ブラックパワー運動の影響の濃いものにしたい(さらには白人のエリコやマーティーニをスライ&ザ・ファミリー・ストーンから追放したい)というブラックパンサー党やその他の黒人解放運動家からの圧力。そして、ザ・ファミリー・ストーンのメンバーたちとの個人的軋轢などである
FAMILY AFFAIR など収録・名盤。
バンドが徐々に解体するにつれて、売り上げと人気にも翳りが見え始めた。1971年にはエリコが脱退し、アンディ・ニューマークがドラマーとなった。ラリー・グラハムとスライはもはや友人ではなくなり、1972年初頭にラリーは解雇され、ラスティ・アレンがベーシストとなった。これ以後のアルバム『フレッシュ』(1973年)と『スモールトーク』(1974年)ではスライの出番が多くなった一方、残りのメンバーの出番は少なくなった。コンサートではドタキャンを繰り返すようになったため、プロモーターから見放されるようになった。そして1975年1月、ラジオシティ・ミュージックホールでの公演が大失敗に終わった後、ザ・ファミリー・ストーンは完全に解散してしまった
SMALL TALKのジャケットには
1974年に女優キャスリーン・シルヴァと結婚し、生まれた息子シルヴェスター・ジュニア。
1987年、スライはコカイン所持によりイリノイ州ディケーターで逮捕された。釈放後、彼は半引退状態となり、隠遁生活に入った。
コカインは全盛期からやっているとみられます
音楽番組でトークをするも、目が逝っちゃっていて、ちょっと変わった事を言ってました。
現在、スライは2名の女性アシスタントと共にナパヴァレーで暮らしている。ホームスタジオで録音することもあれば、趣味でオートバイに乗ることもある。自宅で録音された曲のいくつか(1980年代後期の作品と考えられている)はスライの歌とキーボードとドラムの演奏が入った形でブートレグとして出回っている。スライ作のデモ曲『カミング・バック・フォー・モア』は自伝的作品であり、次のような一節がある。「俺は高みに登りつめ、そして空に触れた。すると空はこう言ったんだ。『スライ、なんで通り過ぎようとするんだ?』カミング・バック・フォー・モア」。息子シルヴェスター・ジュニアが1997年『ピープル』誌の取材に応えたところによると、スライはアルバムが出せるほどの新曲を作り続けているという。その中には、マイルス・デイヴィスに捧げた『マイルス・アンド・マイルス』という曲も含まれている。
月日は流れ・・・2006年のグラミーアワードに突然現れた神!
モヒカン!
すぐに立ち去ってしまったものの、みんなが「スライが帰ってきた」と喜んだ。
近年のスライ・ストーン。未だに「スライ節」は健在!
スライ・ストーン万歳!!
国際フォーラムのジャズ・フェスティバル、9/2には青山のブルーノートにてライブを行いました。
ブルーノートに関してはチケットが非常に入手困難、ヤフオクでは3万円台で取引されたとか。
行けなかったわけですが・・・
初めてスライを聞いたのは中学生の時でしたが、ショッキングでしたね〜
本日はスライ・ストーン特集!
スライ・ストーン 1943年3月15日 生まれ。
本名シルヴェスター・スチュアート。
1960年代中期、スライはカリフォルニア州オークランドのラジオ局KSOLで(のちにはKDIAで)DJを務め、その傍らオータムレコードでレコードプロデューサーを務めた。このとき彼が手がけたバンドには、ザ・ボー・ブランメルズやザ・モジョ・メン、ザ・グレイト・ソサエティがある。スライ・ストーンという芸名を名乗り、1966年にはトランペット奏者のシンシア・ロビンソンを含めてザ・ストーナーズというバンドを結成した。
ストナーズの解散後後、妹のローズがピアノ、弟のフレディがギターを担当し、シンシア・ロビンソンのトランペット、ジェリー・マーティンのサックス、グレッグ・エリコのドラムス、そして、後にチョッパー・ベースの元祖としてファンクの神として崇められることになるラリー・グラハムのベースからなるスライ&ザ・ファミリー・ストーンの誕生でした。
当時このバンドが世間を驚かせたのは、白人黒人混成であることと同時に男女混成という未だかつてない構成でした。リズムの要、ドラムスとサックスが白人男性、ピアノとトランペットが黒人女性、そして残りが黒人男性というバンド編成は、公民権運動により人種の壁が崩れつつあったアメリカの姿を見事に象徴していました。(実際は、黒人女性がヴォーカルではなく器楽奏者として参加していたことの方が珍しかったのです)
そして1969年にはウッドストックに出場。
その後リリースしたアルバム"THERE'S A RIOT GOIN ON"
彼は複数の理由によるストレスで押しつぶされてしまったことに気がついた。売れ行きをさらに伸ばすようにというレコード会社からの圧力。スライの音楽をもっと戦闘的にして、ブラックパワー運動の影響の濃いものにしたい(さらには白人のエリコやマーティーニをスライ&ザ・ファミリー・ストーンから追放したい)というブラックパンサー党やその他の黒人解放運動家からの圧力。そして、ザ・ファミリー・ストーンのメンバーたちとの個人的軋轢などである
FAMILY AFFAIR など収録・名盤。
バンドが徐々に解体するにつれて、売り上げと人気にも翳りが見え始めた。1971年にはエリコが脱退し、アンディ・ニューマークがドラマーとなった。ラリー・グラハムとスライはもはや友人ではなくなり、1972年初頭にラリーは解雇され、ラスティ・アレンがベーシストとなった。これ以後のアルバム『フレッシュ』(1973年)と『スモールトーク』(1974年)ではスライの出番が多くなった一方、残りのメンバーの出番は少なくなった。コンサートではドタキャンを繰り返すようになったため、プロモーターから見放されるようになった。そして1975年1月、ラジオシティ・ミュージックホールでの公演が大失敗に終わった後、ザ・ファミリー・ストーンは完全に解散してしまった
SMALL TALKのジャケットには
1974年に女優キャスリーン・シルヴァと結婚し、生まれた息子シルヴェスター・ジュニア。
1987年、スライはコカイン所持によりイリノイ州ディケーターで逮捕された。釈放後、彼は半引退状態となり、隠遁生活に入った。
コカインは全盛期からやっているとみられます
音楽番組でトークをするも、目が逝っちゃっていて、ちょっと変わった事を言ってました。
現在、スライは2名の女性アシスタントと共にナパヴァレーで暮らしている。ホームスタジオで録音することもあれば、趣味でオートバイに乗ることもある。自宅で録音された曲のいくつか(1980年代後期の作品と考えられている)はスライの歌とキーボードとドラムの演奏が入った形でブートレグとして出回っている。スライ作のデモ曲『カミング・バック・フォー・モア』は自伝的作品であり、次のような一節がある。「俺は高みに登りつめ、そして空に触れた。すると空はこう言ったんだ。『スライ、なんで通り過ぎようとするんだ?』カミング・バック・フォー・モア」。息子シルヴェスター・ジュニアが1997年『ピープル』誌の取材に応えたところによると、スライはアルバムが出せるほどの新曲を作り続けているという。その中には、マイルス・デイヴィスに捧げた『マイルス・アンド・マイルス』という曲も含まれている。
月日は流れ・・・2006年のグラミーアワードに突然現れた神!
モヒカン!
すぐに立ち去ってしまったものの、みんなが「スライが帰ってきた」と喜んだ。
近年のスライ・ストーン。未だに「スライ節」は健在!
スライ・ストーン万歳!!