(ライターFT)
世界遺産にいこうかと!東大路編
東大寺といえば、奈良の大仏です。
関西に住んでいれば、一度は学校の遠足で必ず行きます。食い意地のはった鹿たちにおせんべいをあげたりと、中々楽しい場所です。
これは1998年に世界遺産に登録されています。
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。
一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ[4]、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。
東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
ウィキペディアより抜粋
歴史は上記の通りです。
デイリーSKINでは、少し違った観点から東大寺周辺を調べてみたいと考えています。
東大寺にも、7不思議ならぬ、不思議が存在します。
「大仏殿の柱の穴と穴をくぐる風習の起源と真の理由」
この柱のある北東は鬼門なので、柱の穴から邪気が逃げるようにしてあるのが本当の理由です。ここをくぐる事が出来れば、いい事があり、頭が良くなるなんてことも言われていますが、あまり変わりはありません。
「大仏様の足元(花瓶)には”足が8本の蝶”」がいる!
理由は不明です。
そして鹿は意外に危険!
奈良公園の鹿は、おせんべいをもらう時に、お辞儀したりして可愛らしいのですが、一応、野生の鹿です。買われているわけでは無いので、咬まれたりすることもしばしばあるそうです。
実は東大寺周辺は観光スポットにもなっているので、見どころはかなり多く、1日では足らないかも知れません。
風情ある古都奈良の町並みは、古き良き時代の町並みを残していますので、かなりオススメです。京都のように混んでいないのがオススメです。
素敵な街並みが続きます。
ベタベタな観光ですが、季節の良い時に行くのは最高です。
鹿に戯れ、帰りは奈良まちグルメで美味しいお食事でシメもいいですね。