香港デモで起こっている事 香港の自由さを取り戻す事件 九龍半島の変遷 :: デイリーSKIN

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[2019年10月17日00時00分00秒]
香港デモで起こっている事 香港の自由さを取り戻す事件 九龍半島の変遷


香港デモで起こっている事 香港の自由さを取り戻す事件 九龍半島の変遷

(ライターFT)

アヘン戦争勃発前 

 香港の歴史というと、アヘン戦争から語られることが多いが、当然のことながら、それ以前にも人々の営みはあった。ランタオ島やラマ島からは新石器時代の遺跡が出土しており、この頃からこの地に人類が住んでいたと推定される。
 秦代には始皇帝が珠江下流域を支配下に置き、香港は南海郡番禺県の管轄となった。その後、南越国が領有したが、南越国は紀元前111年に漢の武帝に滅ぼされ、以降、香港も漢の支配下に入った。唐代になると広州が南海貿易の交易港として発展。それにともなって新界に兵士の駐屯地として屯門軍鎮が設置された。宋の時代には、北方民族の南下にともない、漢民族も北部から南部へと移動し、香港にも流入した。これが香港の客家の起源で、新界原居民といわれる。
 清代になると、前代の明の復興を画策する抵抗勢力が中国沿岸を荒らしまわった。清ではそれに対抗するために、福建や広東の住民を内地へ強制移住させる。香港があった新安県は撤廃され、一時的に荒廃した。7年後に撤廃が解除されたとき、清は広東省北部や福建省に暮らしていた客家を開拓民として香港へ移住させた。

🌟香港の歴史を学ぶ イギリス統治時代から現在まで




 有名な九龍のスラム街ですが今はもうないらしいです。



 現在は再開発され、昔のイメージとはかけ離れた街並みになっています。



 現在は香港随一のアーバンエリアと発展を続けています。

 イギリス領だった頃も、九龍城砦の領有権は中国側が保持したまま、このような法的位置づけの曖昧さから、九龍城砦は無法地帯と化していたそうです。



 しかし普通の人も多くすんでいたらしく、無法地帯だったという側面もあったそうですが、住民はそれなりに暮らしていたそうです。無政府状態だったために、九龍城砦ではゴミの収集がなかったり、1平方kmあたりの人口密集度は、香港全体が6700人、繁華街の旺角(モンコック)でも13万人ですが、九龍城砦はこれを大きく上回る192万人という人口過密都市となっていました。

 賃料が安いという理由で、多くの人が集まってきていました。

 元々は、九龍城砦は、海賊などから貿易船などの安全を守るための軍事要塞として作られたそうで、1898年にはイギリスによる領地の租借が始まりましたが、九龍城砦は特例的に清国政府の領地として残され、こうした無政府状態が長期に渡り続きました。

 基本的にゴミは上の階から下の階に落としていき、かさばるゴミは屋上に放置していました。
そのため下層は常に悪臭が立ち込めていたそうです。病気にかかれば無免許の医者が活躍、衛生的には最悪の状態と言えます。

 安全を守る保証は何もないけど、九龍に住む人々の得体の知れないパワーが閉じ込められている空間だったそうです。



 現在ではこんな風に変化を遂げています。











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