1960年に公開されたヒットしたモノ :: デイリーSKIN

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[2019年02月13日00時00分00秒]
1960年に公開されたヒットしたモノ



(ライターFT)

1960年に公開されたヒットしたモノ


 1960年代は映画ブームでした。

 昭和の大スター石原裕次郎が世間を賑わせていました。

 すでに1956年に「太陽の季節」で銀幕デビュー、原作は石原慎太郎という兄弟で原作、主演という華々しいデビューとなる。同年、「狂った果実」も上映され、石原裕次郎はまさに50年代後半から60年代にかけての大スターでした。

 すでに何十本と主演作品を務めていましたが、1960年7月に公開された「天下を取る」という映画が、邦画の興行収入No1となります。

 【解説】
源氏鶏太の週刊誌連載小説を、「拳銃無頼帖 電光石火の男」の松浦健郎が脚色し、「邪魔者は消せ」の牛原陽一が監督した裕次郎のサラリーマンもの。撮影は「あじさいの歌」の横山実。
【あらすじ】
東洋物産株式会社では、新入社員たちが尾山人事係長に連れられて社長室を拝観していた。尾山が無人の椅子に最敬礼をした時、いきなり、社長の椅子に腰をかけた男がいた。大門大太だ。
電話が鳴り、バー・湖のユリ子から社長へ電話がかかってきた。ユリ子は大太に今晩来るようにと言った。
尾山は大太にあきれ、同じく新入社員で娘の沢子をスパイとして大太につけることにした。
同じ大学から入社した亀村は、大太に天下を取らせるため参謀になろうと言った。大太と亀村はその夜早速"湖"に現れた。


天下を取る(映画)/年代流行より抜粋



 コメディーらしく、内容はイマイチらしいです。

 この頃になると、石原裕次郎はかなりの本数、主演を務めています。

 脚本も多分、いい加減に作られたのでしょう。

 若い頃の石原裕次郎は、兄の慎太郎が、何をやってもトントン拍子に才能を発揮できることに、コンプレックスを抱いてたらしいのです。

 1956年に「太陽の季節」が公開されると、一躍勇次郎はスターダムにのし上がります。さらに。



 『狂った果実』は、中平康監督の代表作でもあり、この作品をパリで観た映画評論家時代のフランソワ・トリュフォー監督から高評価を受け、フランスのヌーヴェル・ヴァーグへの影響を与えた作品として、フランスにあるシネマテークで日本映画第1号として保管された重要な作品と言われています。

 1950年代ロカビリー族、六本木族、50年代後半から60年代にかけて太陽族が当時の若者達の間で流行りました。

 石原裕次郎という俳優は時代にうまく乗り、映画に出まくりました。当時、テレビはまだ一家に一台ではありませんでした。そんな中、映画は国民の娯楽でした。とにかく公開される邦画の主演は全て石原裕次郎というくらい、主演を務めていました。さらに兄の原作映画で主演を務めるというのは当時でも今でもセンセーショナルだったのではないでしょうか。

 日本で公開された1960年の洋画の興行収入第一位は「ベン・ハー」という映画でした。



 【解説】
ユダヤの豪族の息子、ベン・ハーの数奇な運命を通してローマの圧政とキリストの最期を6年半の製作期間と54億円の巨費を投じて描いた一大スペクタクル。
【あらすじ】
些細な出来事から旧友メッサラの裏切りにあい、奴隷船送りとなったベン・ハーはそこで命を救ったローマの将軍の養子となる。
束の間の安住の後再び故郷へ戻った彼は、別れた家族が獄中死したと聞かされ戦車競技に出場する事を決意する。そこではメッサラとの宿命の対決が待っていた。


ベン・ハー(映画)/年代流行より抜粋

すでにハリウッドでは映画ビジネスが現在のスタイルの礎となっており、6年半の製作期間と54億円の巨費を投じて描いた一大スペクタクル作品となっています。

 1959年『ベン・ハー』が日本で初上映した際に、昭和天皇が夫妻でご鑑賞されたそうです。

 1960年代にランキング1位になっていた曲が、小林旭の「ズンドコ節」という曲です。小林旭も石原裕次郎につぐスターでした。



 最近では氷川きよしがリメイクしてヒットした曲ですね。

 2枚目俳優でしたが、曲はコミカルなものが多かったのですね。



 1960年代、素敵な時代ですね。











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