ついに薩摩藩の重鎮、西郷吉之助が登場しました。
西郷どん、高橋克己さんが演じています。
役者として円熟味を増してきた高橋克己が演じる西郷どん
当初は少しイメージと違いましたが
いい演技を見せてくれています。
今日は西郷どんについて予備知識を少し、そして
(ライターFT)
NHK大河ドラマ【龍馬伝】
西郷吉之助!
歴史に詳しくない人でもこの人の名前くらいは知っていると思います。
薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称され、幕末を語る上ではこの人を避けて通る事は出来ない。そんな豪快で痛快な人物でもあります。
【愛嬌たっぷりの西郷どん】
幼少のころの西郷どんは龍馬と同じくあまり出来の良い子供とはいえなかった。見た目そのままの感じで、とにかく少し鈍い部分があったようです。
坂本龍馬も幼少のころは「才谷屋の廃れ者」なんて近所でも評判の出来の悪い子だったそうです。
敬天愛人
けいてんあいじん
この言葉は西郷どんの思想になります。
「天を敬(うやま)い、人を愛する」というシンプルな意味を持ちますが、この当時の武士の考えとしては龍馬同様、突飛な思想だったことは間違いないことです。
写真を撮られるのを異常に嫌がったそうで、明治天皇が西郷どんの写真を撮影するように言われても頑なに拒否するほどの徹底振りだったそうです。
始めに上げた西郷どんの肖像画も実はかなり似ていないというのが本当の所のようです。
上野の銅像の序幕式では西郷の妻が「うちの人と顔が違う」と言ったのは有名なエピソード。
写真のように見えるこの写実的な画像は、イタリア人の銅版画家キヨソネが描いたものとされています。上野の銅像もこの肖像画を元に作られたそうです。
西郷隆盛・土方歳三・坂本龍馬 日本人の好きな100人の偉人
西郷隆盛と郷中(ごじゅう)教育 1-2
勝海舟と西郷どん、坂本龍馬がいたからこそ大政奉還が行われ、江戸城無血開場が実現した史実はあまりにも有名。
司馬遼太郎作品の「龍馬が行く」の中で土佐藩船「夕顔」の船内で、龍馬が後藤 象二郎に大政奉還の重要性を説くシーンはあまりにも有名。
世界でも類をみない無血革命と言えるのではないでしょうか?
西郷どんのもう一つもエピソードとして有名なものがキン○マがでかかったという話がある。
実は西郷どん、象皮病だったんです。
ウサギの皮で作った袋にキャンタマを入れていたそうです。
象皮病
ここまでひどい状態ではなかったようですけど、通常の3倍くらいは大きかったそうです。
そして西郷どんの名前なんですが吉之助というのが幼名で隆盛というのは実は西郷どんの父の名前だったんです。
正しくは「隆永」というのが本当の名前。
政府の高官や貴族宛に宛てた手紙には西郷隆永と署名されていたそうです。
では何故、隆盛という名前で通っているのでしょう?
明治2年(1869年)8月、明治政府樹立に貢献した西郷隆盛は明治天皇から名誉ある「正三位(しょうさんみ)」の位を授かります。
明治政府は書類にその名を記すため西郷の本名を大至急知る必要がありました。
しかしその時西郷は函館戦争を終え船で鹿児島へ戻る途中で連絡がつかず、明治政府は西郷の友人吉井友実(よしい・ともざね)
に西郷の本名を聞きに行きました。しかし吉井は西郷を通称名の「吉之助」と呼んでいたため本名を思い出せず、
困った吉井は思い出した「隆盛」という名前を伝え、明治政府は「西郷隆盛」で書類を作成しました。実はこの「隆盛」
というのは西郷の父親の名前です。その後西郷はこの事実を知っても特に異論を唱えず、父親である隆盛の名前を使ったんです。
このことからも分かるように、西郷どんってかなり大らかな人物だったというのが伺えます。
龍馬伝の西郷どん、少し迫力と言いますか、なんといいますか少しイメージとは違うような役つくりではと
感じています。
西郷どん、高橋克己さんが演じています。
役者として円熟味を増してきた高橋克己が演じる西郷どん
当初は少しイメージと違いましたが
いい演技を見せてくれています。
今日は西郷どんについて予備知識を少し、そして
(ライターFT)
NHK大河ドラマ【龍馬伝】
西郷吉之助!
歴史に詳しくない人でもこの人の名前くらいは知っていると思います。
薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称され、幕末を語る上ではこの人を避けて通る事は出来ない。そんな豪快で痛快な人物でもあります。
【愛嬌たっぷりの西郷どん】
幼少のころの西郷どんは龍馬と同じくあまり出来の良い子供とはいえなかった。見た目そのままの感じで、とにかく少し鈍い部分があったようです。
坂本龍馬も幼少のころは「才谷屋の廃れ者」なんて近所でも評判の出来の悪い子だったそうです。
敬天愛人
けいてんあいじん
この言葉は西郷どんの思想になります。
「天を敬(うやま)い、人を愛する」というシンプルな意味を持ちますが、この当時の武士の考えとしては龍馬同様、突飛な思想だったことは間違いないことです。
写真を撮られるのを異常に嫌がったそうで、明治天皇が西郷どんの写真を撮影するように言われても頑なに拒否するほどの徹底振りだったそうです。
始めに上げた西郷どんの肖像画も実はかなり似ていないというのが本当の所のようです。
上野の銅像の序幕式では西郷の妻が「うちの人と顔が違う」と言ったのは有名なエピソード。
写真のように見えるこの写実的な画像は、イタリア人の銅版画家キヨソネが描いたものとされています。上野の銅像もこの肖像画を元に作られたそうです。
西郷隆盛・土方歳三・坂本龍馬 日本人の好きな100人の偉人
西郷隆盛と郷中(ごじゅう)教育 1-2
勝海舟と西郷どん、坂本龍馬がいたからこそ大政奉還が行われ、江戸城無血開場が実現した史実はあまりにも有名。
司馬遼太郎作品の「龍馬が行く」の中で土佐藩船「夕顔」の船内で、龍馬が後藤 象二郎に大政奉還の重要性を説くシーンはあまりにも有名。
世界でも類をみない無血革命と言えるのではないでしょうか?
西郷どんのもう一つもエピソードとして有名なものがキン○マがでかかったという話がある。
実は西郷どん、象皮病だったんです。
ウサギの皮で作った袋にキャンタマを入れていたそうです。
象皮病
ここまでひどい状態ではなかったようですけど、通常の3倍くらいは大きかったそうです。
そして西郷どんの名前なんですが吉之助というのが幼名で隆盛というのは実は西郷どんの父の名前だったんです。
正しくは「隆永」というのが本当の名前。
政府の高官や貴族宛に宛てた手紙には西郷隆永と署名されていたそうです。
では何故、隆盛という名前で通っているのでしょう?
明治2年(1869年)8月、明治政府樹立に貢献した西郷隆盛は明治天皇から名誉ある「正三位(しょうさんみ)」の位を授かります。
明治政府は書類にその名を記すため西郷の本名を大至急知る必要がありました。
しかしその時西郷は函館戦争を終え船で鹿児島へ戻る途中で連絡がつかず、明治政府は西郷の友人吉井友実(よしい・ともざね)
に西郷の本名を聞きに行きました。しかし吉井は西郷を通称名の「吉之助」と呼んでいたため本名を思い出せず、
困った吉井は思い出した「隆盛」という名前を伝え、明治政府は「西郷隆盛」で書類を作成しました。実はこの「隆盛」
というのは西郷の父親の名前です。その後西郷はこの事実を知っても特に異論を唱えず、父親である隆盛の名前を使ったんです。
このことからも分かるように、西郷どんってかなり大らかな人物だったというのが伺えます。
龍馬伝の西郷どん、少し迫力と言いますか、なんといいますか少しイメージとは違うような役つくりではと
感じています。