10月4日はジャニスジョップリンの命日でした。
私の大好きなアーティストということで、今日はジャニスジョップリン特集!
ジャニス・ジョプリンはテキサス州ポート・アーサーに生まれた。父セス・ジョプリンはテキサコに勤める労働者で、家族は両親とマイケル、ローラの三人兄妹であった。ジョプリンは小さな頃からベッシー・スミスやオデッタ、ビッグ・ママ・ソーントンなどのブルースを聞いて育つ一方、地元の聖歌隊に参加している。1960年にポート・アーサーのトーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業しテキサス大学オースティン校に入学した。高校では他の生徒から孤立しがちであったが、仲の良かったグラント・リオンズという生徒にレッドベリーのレコードを聞かされたのを契機にブルースやフォーク・ミュージックにのめり込むようになった。
保守的な南部・テキサスの女性にはあまり見られないジーンズをはき、男友達とつるむジャニスはちょっと浮いていた様子。
歌う事となったきっかけは、友人と酔っ払っている時に「ジャニス、ちょっと歌ってみろよ」と言われ、歌ってみたら憧れのベッシー・スミスそっくりな声で歌ったという。
大学をドロップアウトしたジョプリンは1963年にテキサスを離れサンフランシスコへと向かった。フォーク・シンガーとして生計を立てていたが、この頃から麻薬の常習が始まったとされる。覚醒剤やヘロインの他にアルコールも大量に摂取していた。彼女のお気に入りの銘柄は「サザン・コンフォート」であった。ついでに幻覚作用がある咳止めシロップも常用していた様子。
サザン・コンフォートとジャニス。
音楽とともにドラッグにもかなりのめり込み、64年には静養のため一時テキサスに戻っている。この時かなり衰弱し、専業主婦になることを考えたという。
そんなある日、女性ヴォーカルのシグネ・アンダーソンを看板とするジェファーソン・エアプレインに対抗するべく、女性ヴォーカリストを捜していたビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー(BB&HC)に誘われ、66年に正式加入。そして、67年にシカゴのマイナー・レーベルから「アンダー・グラウンドの王者」でアルバム・デビューしたが、いいように丸め込まれ、彼らには1セントも入らなかったらしい・・・。後にこのアルバムはCBSが買い取り、シングルを2曲を加えて「ファースト・レコーディング」として再発売されている。
BB&HCのメンバーは、サム・アンドリュース(g,vo)、ピーター・アルビン(b)、ジェームス・ガーレイ(g) 、デイヴ・ゲッズ(ds)
本当に仲がよさそうなメンバー達。
ファーストレコーディング。
1967年、ジャニスの名を一躍にアメリカ中に知らしめることになる、モンタレー・ポップ・フェスティバルへ出演。これはママス・アンドパパス主催のイベントだったのですが、新人のジャニスとジミヘンに思いっきり持って行かれる。
ビッグ・ブラザーはコンビネーション・オブ・ザ・ツーとビッグ・ママ・ソーントンの Ball and Chain を荒々しい歌声で歌いこなしてみせた。D・A・ペネベイカー撮影のドキュメンタリー『モントレー・ポップ』では、群衆の中に紛れたキャス・エリオットが”Wow, that's really heavy”口を空けて驚いている姿が撮影されている
これがきっかけとなりビッグ・レーベルCBSと契約したBB&HCは、68年ライブ・アルバム「チープ・スリル」をリリース。これが全米8週連続1位という大ヒットを記録。ジャニスもロック界初の女性スーパースターと呼ばれるようになり、人気を爆発させた。
あまりにジャニスの人気が爆発し、ジャニスのバックバンドとしか見られなかったBBHCのメンバーが不満に思ったのか、馴れ合いが始まって活気がなくなったのか、他の人たちが創造を止めてしまったのかさまざまな理由でジャニスはこの年サム・アンドリュースとともにBB&HCを脱退してしまう。
個人的にはこのバンドにいた方がジャニスには居心地がよかったはず・・(憶測)
この頃はジミヘンがBBHCのお手伝いをしていたり、ジムモリソンとも仲がよかった様子。(この3人、同じ27歳で亡くなってしまう)
その後、サムを中心にジャニス・ジョップリンズ・レヴューを結成するが、長続きせず、メンバーとバンド名をコロコロ変えながら、アメリカン・ツアーを行った。
結局最後に残った布陣サム・アンドリュース(g)、ブラッド・キャンベル(b)、ロイ・マルコヴッツ(ds)、テリー・クレメンツ(T-sax)、スヌーキー・フラワーズ(B-sax)、ルイス・ガスカ(trumpet)、リチャード・カーモード(kb)でジャニス初のソロ・アルバムを69年に発表。このメンバーをCOSMIC BLUES BANDコズミック・ブルース・バンドと名付けたが、このバンドも2ヶ月後には解散していた。
私の中では最高傑作だと思うのですが・・
このバンドでウッドストックフェスティバルに参加。
かなりの泥酔状態だったという。
1970年ついに彼女の理想のバンドFULL TILT BOOGIEフル・ティルト・ブギーを結成。
Brad Campbellブラッド・キャンベル(b)、John Tillジョン・ティル(g)、Richard Bellリチャード・ベル(piano)、Ken Pearson ケン・ピアソン(organ) 、Clark Piersonクラーク・パイアソン(ds)というメンバーで最後となってしまうアルバムをレコーディング。しかしこれがほぼ完成した70年10月4日、ジャニスは1人ハリウッドのホテルで死体として発見された。
手にはタバコを買った時のつり銭、4ドル50セントが握られ、傍らには封の切られていないマルボロが転がっていたという。
原因は濃度の高いヘロインを大量に摂取してしまったため。
理想のバンドに巡り会い、私生活でも婚約するなど、彼女がやっとつかんだ幸せ絶頂期はあまりにも短かった・・・。
遺作となってしまった「PEARL」ではMercedes-Benz のアカペラの仮録音、そして Buried Alive in Blues は本人の歌の録音の前日に亡くなってしまったため、インストで収録されている。
生前にリリースされたアルバムは3枚だけ!?
芸能活動は3年ほどなのに物凄いインパクトを与えた。
1970年のジャニス。 27歳とは思えない老けっぷり。
ジャニスの愛車、「サイケデリック・ポルシェ」もフロントにはBBHCの絵が描かれている。
亡くなって38年も経ってしまいましたが、未だに信者が多く、PINKやJOSS STONEなどがよくカバーしていますね。特にPINKは上手い!
それではみなさんまた来週。
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私の大好きなアーティストということで、今日はジャニスジョップリン特集!
ジャニス・ジョプリンはテキサス州ポート・アーサーに生まれた。父セス・ジョプリンはテキサコに勤める労働者で、家族は両親とマイケル、ローラの三人兄妹であった。ジョプリンは小さな頃からベッシー・スミスやオデッタ、ビッグ・ママ・ソーントンなどのブルースを聞いて育つ一方、地元の聖歌隊に参加している。1960年にポート・アーサーのトーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業しテキサス大学オースティン校に入学した。高校では他の生徒から孤立しがちであったが、仲の良かったグラント・リオンズという生徒にレッドベリーのレコードを聞かされたのを契機にブルースやフォーク・ミュージックにのめり込むようになった。
保守的な南部・テキサスの女性にはあまり見られないジーンズをはき、男友達とつるむジャニスはちょっと浮いていた様子。
歌う事となったきっかけは、友人と酔っ払っている時に「ジャニス、ちょっと歌ってみろよ」と言われ、歌ってみたら憧れのベッシー・スミスそっくりな声で歌ったという。
大学をドロップアウトしたジョプリンは1963年にテキサスを離れサンフランシスコへと向かった。フォーク・シンガーとして生計を立てていたが、この頃から麻薬の常習が始まったとされる。覚醒剤やヘロインの他にアルコールも大量に摂取していた。彼女のお気に入りの銘柄は「サザン・コンフォート」であった。ついでに幻覚作用がある咳止めシロップも常用していた様子。
サザン・コンフォートとジャニス。
音楽とともにドラッグにもかなりのめり込み、64年には静養のため一時テキサスに戻っている。この時かなり衰弱し、専業主婦になることを考えたという。
そんなある日、女性ヴォーカルのシグネ・アンダーソンを看板とするジェファーソン・エアプレインに対抗するべく、女性ヴォーカリストを捜していたビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー(BB&HC)に誘われ、66年に正式加入。そして、67年にシカゴのマイナー・レーベルから「アンダー・グラウンドの王者」でアルバム・デビューしたが、いいように丸め込まれ、彼らには1セントも入らなかったらしい・・・。後にこのアルバムはCBSが買い取り、シングルを2曲を加えて「ファースト・レコーディング」として再発売されている。
BB&HCのメンバーは、サム・アンドリュース(g,vo)、ピーター・アルビン(b)、ジェームス・ガーレイ(g) 、デイヴ・ゲッズ(ds)
本当に仲がよさそうなメンバー達。
ファーストレコーディング。
1967年、ジャニスの名を一躍にアメリカ中に知らしめることになる、モンタレー・ポップ・フェスティバルへ出演。これはママス・アンドパパス主催のイベントだったのですが、新人のジャニスとジミヘンに思いっきり持って行かれる。
ビッグ・ブラザーはコンビネーション・オブ・ザ・ツーとビッグ・ママ・ソーントンの Ball and Chain を荒々しい歌声で歌いこなしてみせた。D・A・ペネベイカー撮影のドキュメンタリー『モントレー・ポップ』では、群衆の中に紛れたキャス・エリオットが”Wow, that's really heavy”口を空けて驚いている姿が撮影されている
これがきっかけとなりビッグ・レーベルCBSと契約したBB&HCは、68年ライブ・アルバム「チープ・スリル」をリリース。これが全米8週連続1位という大ヒットを記録。ジャニスもロック界初の女性スーパースターと呼ばれるようになり、人気を爆発させた。
あまりにジャニスの人気が爆発し、ジャニスのバックバンドとしか見られなかったBBHCのメンバーが不満に思ったのか、馴れ合いが始まって活気がなくなったのか、他の人たちが創造を止めてしまったのかさまざまな理由でジャニスはこの年サム・アンドリュースとともにBB&HCを脱退してしまう。
個人的にはこのバンドにいた方がジャニスには居心地がよかったはず・・(憶測)
この頃はジミヘンがBBHCのお手伝いをしていたり、ジムモリソンとも仲がよかった様子。(この3人、同じ27歳で亡くなってしまう)
その後、サムを中心にジャニス・ジョップリンズ・レヴューを結成するが、長続きせず、メンバーとバンド名をコロコロ変えながら、アメリカン・ツアーを行った。
結局最後に残った布陣サム・アンドリュース(g)、ブラッド・キャンベル(b)、ロイ・マルコヴッツ(ds)、テリー・クレメンツ(T-sax)、スヌーキー・フラワーズ(B-sax)、ルイス・ガスカ(trumpet)、リチャード・カーモード(kb)でジャニス初のソロ・アルバムを69年に発表。このメンバーをCOSMIC BLUES BANDコズミック・ブルース・バンドと名付けたが、このバンドも2ヶ月後には解散していた。
私の中では最高傑作だと思うのですが・・
このバンドでウッドストックフェスティバルに参加。
かなりの泥酔状態だったという。
1970年ついに彼女の理想のバンドFULL TILT BOOGIEフル・ティルト・ブギーを結成。
Brad Campbellブラッド・キャンベル(b)、John Tillジョン・ティル(g)、Richard Bellリチャード・ベル(piano)、Ken Pearson ケン・ピアソン(organ) 、Clark Piersonクラーク・パイアソン(ds)というメンバーで最後となってしまうアルバムをレコーディング。しかしこれがほぼ完成した70年10月4日、ジャニスは1人ハリウッドのホテルで死体として発見された。
手にはタバコを買った時のつり銭、4ドル50セントが握られ、傍らには封の切られていないマルボロが転がっていたという。
原因は濃度の高いヘロインを大量に摂取してしまったため。
理想のバンドに巡り会い、私生活でも婚約するなど、彼女がやっとつかんだ幸せ絶頂期はあまりにも短かった・・・。
遺作となってしまった「PEARL」ではMercedes-Benz のアカペラの仮録音、そして Buried Alive in Blues は本人の歌の録音の前日に亡くなってしまったため、インストで収録されている。
生前にリリースされたアルバムは3枚だけ!?
芸能活動は3年ほどなのに物凄いインパクトを与えた。
1970年のジャニス。 27歳とは思えない老けっぷり。
ジャニスの愛車、「サイケデリック・ポルシェ」もフロントにはBBHCの絵が描かれている。
亡くなって38年も経ってしまいましたが、未だに信者が多く、PINKやJOSS STONEなどがよくカバーしていますね。特にPINKは上手い!
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