真のロッカー・葛城ユキ :: デイリーSKIN

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[2008年07月02日00時00分00秒]
真のロッカー・葛城ユキ

先日葛城ユキがTVに出ていたのですが
なんと59歳だそうです。

「ボヘミアン」を熱唱する声量も相変わらず健在のユキ姉さんを特集!


   あw間違えた!      こっち。
 
芸名 葛城ユキ
誕生日 1949年5月25日
星座 ふたご座
出身地 岡山 高梁市
性別 女
血液型 A型
身長 168cm
体重 52kg
ジャンル 歌手・アーティスト
デビュー年 1974年
デビュー作品 木曽は山の中
趣味 犬との散歩
特技 料理
ペット 犬(ヨークシャテリア)
好きな色 黄 黒



1974年第7回ヤマハポピュラーソングコンテストで「木曽は山の中」を歌い、最優秀賞を受賞。同年秋の第5回世界歌謡祭でも同曲で入賞(川上賞)し、一躍注目される。

1980年にファーストアルバム『寡黙』をリリース。1983年にASKA作詞提供の『ボヘミアン』が大ヒット(以後自身の代表曲となる)。


        



現在は日本・中国で歌手活動を続ける一方、葛城ユキ・プロフェッショナル・ヴォーカル・アカデミーを主宰している。

  
               

   そして59歳にしてこの脚線美!!!

                



〜〜〜ユキ姉さんの歴史〜〜〜

●1986
日本人女性ロックヴォーカリストとして初の中国公演を開催し3万人の観客を動員。
●1993
中国人民対外友好協会からの招聘を受け、青島人民会堂で開催の「日本歌星迎春大型演唱会」出演。
●1995
新しい音楽性を見いだすべく「どじ・・・ 」をリリースし、第28回日本作詩大賞にノミネート。
●1996
通算21作めのアルバム「葛城ユキ〜魂を追いかけて〜」をリリース。松竹映画〜必殺!主水死す〜の主題歌「哀しみは花びらにの
せて」をリリースし話題を集める。
●1997
4度めの中国公演を7月に開催。青島公演の公開リハーサルでは2万人、翌日の本番では5万人の観客を前に熱演し客席を大いに沸かす。この模様は本番当日青島電視台で生中継されたほか、翌々日に中央電視台を通じ中国全土に向けテレビで紹介される。
また北京公演にはこのテレビ放送を観た観客が約1500名収容のホールを一杯にした。青島公演で大々的に評価を受けた中国語曲「愛的奉献」は、北京でも中国人が歌ったオリジナルを超える出来映えと支持を集める。
一方8月は首都ウランバートル郊外の大草原で日本人ロックシンガー初のモンゴル公演を実施。日本とモンゴル共同開催による初
のマラソン大会のパーティーでのライヴであったが、マラソン参加者以外に付近のゲル(円形テント)からも移動民族が多数詰めかけ大いに盛り上げ国際交流に貢献。


         
     
         サイン。かなり欲しい!




2003年10月、とんねるずのみなさんのおかげですのテレビ番組収録中に事故にあった。大砲の弾となって筒から飛び出すコーナーに出演。着地の際に背中を打って胸椎(きょうつい)(背骨の一部)を骨折した。命にかかわる重傷だった

・・・・・・・その直後のインタビュー・・・・・・


大きな声を出すと、背中がミシミシと痛む。30センチのチタンの支柱が2本、背骨に沿って入っている。粉砕骨折した部分を補強するためだ 


「でも、ステージに立つと全部忘れちゃいますね。つい無理をしてしまって」



 体をねじれない。しゃがむことも出来ない。以前と変わらないライブの熱気の裏で、今も後遺症と闘っている。

  「事故の直後、お医者さんに『また歌えますか』って聞いたんです。『大丈夫』と言われたけど、慰めにしか聞こえなかった」。実際、スタッフには「最悪の可能性」も伝えられていた。

 手術は2度に及んだ。最初はチタンの支柱での固定。2度目は自分の骨盤の骨を胸椎へ移植した。激痛で、毎日2時間ほどしか眠れなかった。「もう痛いなんてもんじゃなかった。地獄でした」
 事故前に録音した曲が出来上がってきたが、病室で聴くのがつらかった。「もうこんな声は出ない」と思うと、胸がいっぱいになった。

 だが、どうしても「歌手」をあきらめられなかった。あのころと同じように。

18歳の家出

 <どうしても歌手になりたいから、探さないで欲しい。必ず成功するから>

 両親への手紙を外からポストに入れて、家出をしたのは18歳のときだった。

 高校ではバレーボール選手として国体に出場。名門実業団への入団が決まっていた。「でも、歌が好きで歌手の夢をあきらめ切れなかった」。姉を頼って岡山から大阪へ出て、いろんな仕事をしながら歌謡学校に通った。

 女性のロックシンガーが珍しかったころ。激しくシャウトするスタイルで注目された。バンドを組んで全国をライブで回り、アルバムを出す日々は、「ボヘミアン」の大ヒットでも変わらなかった。



奇跡の復帰


 最初は歩くのもやっと。風船を膨らませるリハビリで、つぶれた肺を少しずつ膨らませた。カラオケボックスで自分の曲を歌ってみた。「やれるかも知れない」と思った。

 2004年3月、「プライド〜フォー・ユー」を録音。初の作詞作曲だった。「自分の声をもう1度伝えたい。切実に思いました」。5月に奇跡の復帰。万感の思いでステージを踏みしめた。

 復帰後、変化もあった。ロックだけでなく、ライブで創作民謡も歌うようになったのだ。「せっかくの第二の人生。ジャンルにとらわれず、自由に自分を表現しよう。そう思えるようになったんです」




  感動  。・゚・(ノД`)・゚・。



       ユキ姉さん、あなたは永遠のロッカーです!             

              いつまでもそのテンガロンハットと脚線美
       そしてそのパンチのある歌声でがんばってください。




            
 
     ファンクラブに入っちゃおうかな    ・゚(n‘∀‘)η゚・

















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