【城】 :: デイリーSKIN

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[2006年08月26日00時00分00秒]
【城】

関西方面から北陸地方に来る時に、鉛色の空に変わると言われることがあります。
鉛色の空の下、福井から私、サカヤンがお送りします。
鉛色通信、略して「鉛通(ナマツウ!)」

今回も柴田勝家シリーズです
歴史好きではない人にはつまらないかもしれませんが
あなたの住んでる街も同じような感じで歴史を積み上げて
今の街があるのでそんなこんなで読んでみてね

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柴田勝家という人物

この福井の土地では悪い話は聞かない

それはこの土地を過去治めていたという事だけでが理由ではないだろう

その後、治めていた「丹羽長秀」(信長四天王の一人)、その息子「長重」それ以降、結城秀康(徳川家康の次男)まで逸話が無いばかりか
福井春祭りの越前時代行列にすら名前が出ていない

越前時代行列では柴田勝家が主役を勤めるぐらい
柴田勝家の存在感は大きい

その理由は柴田勝家の内政力の高さであると考える

戦国武将とは合戦での働き、武勇などが注目されがちだが
実のところ政治力であると私は思う

乱世は天才を輩出する、戦国時代という乱世は数多くの
天才を輩出してきた、武勇に優れ、人に慕われ、国を経営する
上杉謙信、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉徳川家康、
挙げればキリがないが
歴史に名を残している者は
ほとんどが政治的にも優れた力の持ち主である

柴田勝家が北の庄に入り

この越前の国の経営を始める

かつて信長、他の豪族をも多いに苦しめた一向一揆
まずその力となる「刀さらえ」をする
世に言う「刀狩り」の事だ
実はこの「刀狩り」豊臣秀吉が行ったことで有名なのだが
先にはじめたのはこの柴田勝家なのだ
武辺一辺倒のイメージが先行してしまいそうな人物なのだが
なかなかの企画者だと私は思う
しかも秀吉との違いは
その刀、鎧、鉄砲、弓等を自分達の為にせしめるのではなく
鍛冶屋をよび
「鋤」「鍬」などに作り変え領土の農民に分け与えた

この行為は民の心をつかまない訳がない
今、現在、消費税等を公共事業一般に使われている
などと説明されても、さてそれは一体何なのかがさっぱり
見えない
それが「鍬」なり「鋤」なりにリサイクルされ、民が農業を営み
それが国の力になるのだから勝家は相当広い目を持っていた
人物に違いない

更に鎖にし、48隻の船をつなぎ舟橋とする
船橋を作った鎖
柴田神社の横の資料館に置いてある


現在も九頭竜川の近くにその由来となってるであろう地名がある

真ん中付近にある船橋

民の為の政治、国のための政治
調べれば調べるほど柴田勝家の深さ、魅力がこの地に盛り込まれている

そしてこの漢が此の地に骨を埋めようと心に決めたのであろう

北の庄城を築城する


北の庄城想像図


ポルトガルの宣教師「ルイス・フロイス」が本国に宛てた手紙に
よると

「此の城は、甚だ立派で、今工事をしており、予が城内を進みながら見て
喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、
その色により一層城の美観を増したことである。。。」


羽柴秀吉が勝家を攻めた時にも
「城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候・・」

とある

あの信長の安土城でさえ五層七重となっている
それほどこの地への意気込みそれと愛着とも感じられる

余談だが

ここにでてくる石は笏谷石で
足羽山山麓から産出され北前船によって日本海沿岸各地に運ばれ、
「笏谷石文化圏」ともいえる遺産を日本各地に残した

北の庄城以前から笏谷石は使われていたらしいが
滑らかできめ細かく加工面に優れていた事から勝家も使用したのだろう


北の庄城の鬼瓦

この鬼瓦を見てふと思った

柴田勝家はなんともこの笏谷石のような漢じゃなかったのだろうか
重く、硬く、自在に変化し、そしてなぜか暖かい

そんな男のこの地での物語り
また来週も続けさせて頂きます

何やっちゃおえ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!











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