関西方面から北陸地方に来る時に、鉛色の空に変わると言われることがあります。
鉛色の空の下、福井から私、サカヤンがお送りします。
鉛色通信、略して「鉛通(ナマツウ!)」
勝家シリーズもいよいよ最終回
いくっちゃおえ〜〜〜〜〜!!!
賤ヶ岳の合戦
恐怖は伝染し総崩れで敗走した、勝家もさすがに敗走する味方を
食い止めるすべはなかった
その時、秀吉軍を引き付け足止めしたのが勝家の小姓「毛受庄介照景」
この照景は長島一向一揆の時に乱戦の中、勝家は負傷し
敵に金の御幣馬印を奪われてしまった、その時、照景が敵中に駆け入り
馬印を取り戻してきた、そのおかげで名を勝介家照と名を
もらったほどである
その照景が馬印を持って影武者となり
敵を引き付け討ち死にした
馬印
今の時代、主君の為に命を落としてまで逃がそうと思える人物は
そういないであろうし、思う事も無いと思う
この乱世の時代の精神世界は今の世とまったく違うので
想像もできないが人の為に死ぬ
お国の為に死ぬ
こういった事がない今の時代は平和で、こういった血生臭い歴史に
よって成り立っている事を忘れてはいけない
勝家はそのおかげもあってわずかな馬廻衆に守られ
越前に戻った
この時に府中(旧武生市)竜門寺
で合戦で戦わずして敗走した
前田利家が勝家を迎えたらしい
色々シガラミがあるのを勝家を理解しているのであろう
この時の両者は正直、バツが悪い者同士だが
和やかなものだったらしい
湯漬けを出し、馬を送った
利家の家臣の大井直泰が「勝家を斬って秀吉に差し出しては?」
との言葉に烈火の如く怒ったという話は結構有名である
その後、秀吉が利家を訪ね、北の庄城攻めの先鋒に利家を
命ずる所は秀吉のいやらしいというか流石とも言う所であろう
着々と地盤固めをしていってる様子が分かる出来事である
秀吉は北の庄城を囲んだ
秀吉の布陣した場所は、福井の足羽山である
前の鉛通でも取り上げた事もあるが笏谷石が取れる場所である
この足羽山
勝家が城下町建設にともない一乗谷から愛宕大権現を移し
愛宕山と呼ばれる、その頃から足羽山と別の使用されていたみたいである
現在は桜の名所にもなっていて春になると花見客が多く
ミニ動物園などや自然史博物館などがあり
市民の憩いの場所となっている
上の写真は足羽山で秀吉が布陣していた辺りにある池で
幼少の頃、玩具のボートで遊んだおぼえがあるが
まさか、その時はそんな場所だとは思いもよらなかったが
天正12年4月22日
勝家側の城兵3000
必死の抵抗を試みるも二ノ丸、三ノ丸をやぶられ本丸に迫る
その夜、天守に家臣、家族を集め酒宴を開いた
その時の様子はどうだったのであろう
悔しさに打ちひしがれていたとは思えない
もう死を覚悟してはいたのだろうが終始和やかで
今までの労い、昔話に花を咲かせていたと思う
夜明け、秀吉軍の攻撃が始まる
「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲居にあげよ 山ほととぎす」
勝家辞世の句
猛将と称され、信長軍では常に先鋒を務め、この福井の礎を作った漢の夢は
城と共に炎に包まれ愛するお市と幕を閉じた
勝家とお市の菩提寺は福井の西光寺にある
愛刀袖切丸
この梅は勝家愛用の梅だったものらしいが焼失してその後
そこからまた芽が生えてきた木らしい、今だ勝家は福井を見守っているのだ
完
鉛色の空の下、福井から私、サカヤンがお送りします。
鉛色通信、略して「鉛通(ナマツウ!)」
勝家シリーズもいよいよ最終回
いくっちゃおえ〜〜〜〜〜!!!
賤ヶ岳の合戦
恐怖は伝染し総崩れで敗走した、勝家もさすがに敗走する味方を
食い止めるすべはなかった
その時、秀吉軍を引き付け足止めしたのが勝家の小姓「毛受庄介照景」
この照景は長島一向一揆の時に乱戦の中、勝家は負傷し
敵に金の御幣馬印を奪われてしまった、その時、照景が敵中に駆け入り
馬印を取り戻してきた、そのおかげで名を勝介家照と名を
もらったほどである
その照景が馬印を持って影武者となり
敵を引き付け討ち死にした
馬印
今の時代、主君の為に命を落としてまで逃がそうと思える人物は
そういないであろうし、思う事も無いと思う
この乱世の時代の精神世界は今の世とまったく違うので
想像もできないが人の為に死ぬ
お国の為に死ぬ
こういった事がない今の時代は平和で、こういった血生臭い歴史に
よって成り立っている事を忘れてはいけない
勝家はそのおかげもあってわずかな馬廻衆に守られ
越前に戻った
この時に府中(旧武生市)竜門寺
で合戦で戦わずして敗走した
前田利家が勝家を迎えたらしい
色々シガラミがあるのを勝家を理解しているのであろう
この時の両者は正直、バツが悪い者同士だが
和やかなものだったらしい
湯漬けを出し、馬を送った
利家の家臣の大井直泰が「勝家を斬って秀吉に差し出しては?」
との言葉に烈火の如く怒ったという話は結構有名である
その後、秀吉が利家を訪ね、北の庄城攻めの先鋒に利家を
命ずる所は秀吉のいやらしいというか流石とも言う所であろう
着々と地盤固めをしていってる様子が分かる出来事である
秀吉は北の庄城を囲んだ
秀吉の布陣した場所は、福井の足羽山である
前の鉛通でも取り上げた事もあるが笏谷石が取れる場所である
この足羽山
勝家が城下町建設にともない一乗谷から愛宕大権現を移し
愛宕山と呼ばれる、その頃から足羽山と別の使用されていたみたいである
現在は桜の名所にもなっていて春になると花見客が多く
ミニ動物園などや自然史博物館などがあり
市民の憩いの場所となっている
上の写真は足羽山で秀吉が布陣していた辺りにある池で
幼少の頃、玩具のボートで遊んだおぼえがあるが
まさか、その時はそんな場所だとは思いもよらなかったが
天正12年4月22日
勝家側の城兵3000
必死の抵抗を試みるも二ノ丸、三ノ丸をやぶられ本丸に迫る
その夜、天守に家臣、家族を集め酒宴を開いた
その時の様子はどうだったのであろう
悔しさに打ちひしがれていたとは思えない
もう死を覚悟してはいたのだろうが終始和やかで
今までの労い、昔話に花を咲かせていたと思う
夜明け、秀吉軍の攻撃が始まる
「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲居にあげよ 山ほととぎす」
勝家辞世の句
猛将と称され、信長軍では常に先鋒を務め、この福井の礎を作った漢の夢は
城と共に炎に包まれ愛するお市と幕を閉じた
勝家とお市の菩提寺は福井の西光寺にある
愛刀袖切丸
この梅は勝家愛用の梅だったものらしいが焼失してその後
そこからまた芽が生えてきた木らしい、今だ勝家は福井を見守っているのだ
完